那波歩才先生の作品を読み返していたときに、ふと考えた。
ノスタルジーって、なんだろう?
那波作品におけるノスタルジー
途中まで真面目に書いてたんだけど、読み返してみたら疲れるし、小難しい印象になりそうだからくだけて書いてみることにする。
那波先生の作風でもある独特の世界観はどこから来るんだろうかっていうことを考えてみると、もちろん大きな要素は会話劇、台詞選びにあることは疑いようもない。でも、『ALIENSAREA』『極東ネクロマンス』に共通する仕掛けはもう一つあると思っていて、それは「小道具による懐古趣味」である。
例えば、『ALIENSAREA』では、評価が爆上がりしたA3編の重要人物である豊がカセットプレーヤー、ジッポライター(今のご時世、タバコもかもね)を用いているし、『極東ネクロマンス』では3話にしてカセットテープが登場。どちらも、さりげなく、異質な雰囲気を作品に醸し出すことに成功している。
那波先生が、作中でこういった古めかしいガジェットを出す理由は何だろう。
…そりゃ、「作者が好きなんだろう」のひとことで片付けてもいいが、あえて話をこねくり回してみると、ここには(少なくとも)三つの役割があるんだろうと思われる。
まず第一に、世界観構築。少年の心を掴むことに全力を注いでもなお、生き残ることが難しい蟲毒こと週刊少年ジャンプにおいて、「懐古趣味」をやる(やろうとする)だけで作品に独自性が生まれる。
第二に、キャラクターの個性付け。要するに、時代遅れな小道具をキャラクターに使わせることで、そのキャラクターに個性を持たせる。
第三に、読者のノスタルジーの体感。懐かしい小道具を登場させることで、読者が懐かしむ。または、その小道具を通して、懐かしさという感覚を、キャラクターを通して体感する。
…こんなもんかね。今回の記事では、主に三つ目の「読者のノスタルジーの体感」に関して、考えたことを書こうと思う。
ノスタルジーの種類
そもそも、我々はどのようなものにノスタルジーを感じるのだろうか。
現実世界では、モノ、人、土地、建物、景色、匂い、言葉、音…五感で感じるモノ全てに「ノスタルジー」の判定があると思う。
ただ、漫画のノスタルジーは主に視覚が主だろうからそこを考える。(言葉の可視化こと台詞については割愛)
まず、普遍的なノスタルジー。夕焼けや田舎といった、誰もが「懐かしさ」を共有できるような事象。なんとなく、なぜか懐かしい。そんなやつ。
次に、個別的なノスタルジー。ある人にとっては何でもないようなモノが、ある人にとっては懐かしいものになる場合。
例えば黒板。黒板は現役で使われる道具であるが、ほとんどの人にとって、高校卒業と共に身近なものではなくなる。だから、現役の学生にとって、黒板はノスタルジーとは無縁なものだが、大人のみなさんにとってはたちまち「ノスタルジー」の源泉となる。…なぜ「学園もの」に一定の需要があるのか、週刊少年ジャンプなのに大人のみなさんが多く集っているのかがちょっとわかるような気がする。
ただ、普遍とは、「普遍」が共有されているという意味で、本質は個別的なものである。と言いたい。つまり、個別的なものが、ほぼ全ての人に共有されているからこその「普遍」であるということ。この「共有」が漫画においては重要な意味を果たしていると思っているが、それについては後述する。
ノスタルジーの範囲
では、我々が漫画内で「ノスタルジー」に出会ったとき、どのような効果を体感しているのだろうか。
漫画内にて、懐かしさのトリガーとして典型的なのはモノであるから、今回の記事では、作者が意図してノスタルジーを誘発させるために登場させた「モノ」を、読者がどのように受容するのかについて考えたい。
ここに、4つの受容のあり方があると考える。以下に記す。
①モノへの憧憬+自分の個別的経験
これは、登場したモノに対して、読者が特定の思い出を有している場合に生ずる。作中のモノから、自身の特別な過去を想起させる、最も強いノスタルジーの受容である。
例えば、作中のキャラクターが読者と同じ境遇に陥ったとか。作中のキーアイテムが、現実世界でも入手可能で、読者の思い出の品だった、とか。
そんなことが起こったならば、その読者にとって、その作品はただの作品ではなくなる。感情移入も一般の読者よりも出来るだろうし、その作品を読むことで、読者自身の思い出を想起するトリガーとしての役割を果たすかもしれない。それだけ、思い入れの強い作品となるだろう。
が、この段階の受容を作者が狙えるかは疑問符が付く。性質上、狙えるようなものじゃない上、十人十色の読者に共通する特別な過去なんて存在しないでしょう。なので、この受容が発生するのは、偶発的なケースだけだろう。
②モノへの憧憬
登場した懐かしいモノに対して、素直にノスタルジーを感じる受容。
「あるある」ネタはここに入るだろう。漫画に限らず、自伝やエッセイに一定の需要があるのは、物語を通してノスタルジーをこのレベルで受容できるから、という理由もあるかもしれない。
懐かしさを感じる演出によって懐かしさを覚えるという真っ当な感覚だが、「ジャンプ」の、それもストーリー漫画の作品内では、このレベルでのノスタルジーを演出するのは難しいのではないか。例えば、なんのバックグラウンドを持たせずに作中にカセットテープを登場させても、そこにノスタルジーを覚えさせるのは難しいだろう。なぜなら、現実のモノでもないし、そこに何の思い入れもないからである。先のカセットテープがノスタルジーとして受容されることが無ければ、ただのレトロなガジェットとなり「作者のこだわり」以上の意味を有しなくなる。
③生み出されたノスタルジー
184が注目しているのはこの受容である。やや複雑。
読者は、登場したモノには思い入れもないし、特に懐かしさを覚えない。しかし、モノ自体のバックボーンや作品の登場人物にとっての思い入れが、物語上で語られることでノスタルジーが生まれ、読者はそれを受容する。
…どういうこと?
那波歩才『極東ネクロマンス』第3話より(集英社)
…要するに、こういうことです。。。
184はカセットテープの現物はほとんど見たことが無いし、CDラジカセに入れて再生したことも無い。しかし、耀司の(そして、薫の父親のものだった)カセットテープにはノスタルジーを感じる。つまり、184は、このカセットテープを③ノスタルジーのあり方で受容しているのだ。
つまり、ノスタルジーそのものではなく、その作品によって紡がれる「共有された物語としてのノスタルジー」を受け入れるということである。①とは、それが自分の経験ではないという違いがある。
①②は前述した通り、演出としては狙いづらいため、漫画における「ノスタルジー」は、この受容が中心に行われることが多いと思う。
そして、作劇においては、この範囲をいかに広げられるかというところに、作者の技量求められるだろう。
この視点から見ると、『ALIENSAREA』の、豊のカセットプレーヤーよりも、『極東ネクロマンス』のカセットテープの方が、「ノスタルジー」の範囲は広く、より作者の意図が読者に伝わっているといえるだろう。
④モノとしての受容
これは、モノをただのモノとして見る受容のあり方である。読者にとって「ただ古いガジェットが登場しただけ」という印象となる。今回の趣旨においては、演出の失敗だといえる。
でも、この状態でも、モノの「ノスタルジー」以外の役割は果たせているので別に悪い状態ではない。「作者のこだわり」も、作品に対しての熱意に直結するだろうし、有益である。
〆
そもそも、漫画はノスタルジーを演出するのに向いていない。
現実のノスタルジーと漫画におけるノスタルジーは性格が異なる。先ほどの分類を用いれば、現実におけるノスタルジーは主に①②が多いのに対し、漫画では③が多い。ノスタルジーは、あくまで自己の内的記憶を想起することで生ずる感情である。物語そのものにノスタルジーを感じるならともかく、物語世界の内部の事象においては、「懐かしさ」を引き起こす仕掛けを作るのは難しいのかもしれない。
しかし、ノスタルジーは劇薬である。人は誰しも懐かしさを拒まない。現実から切り離された、かつて確実に存在した理想郷を求めて、無意識のうちに記憶の断片を集めている。ノスタルジーを演出によって上手くコントロールできれば、より評価される作品を描くことができるかもしれない。
また、「ノスタルジー」の視点から作品を読むことで、新しいものが見えるかもしれないとおもいました。(途中で息切れ)
ノスタルジーの効果
こときれた。